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忠武公李舜臣が全羅左水営の本営として使用、朝鮮水軍救国歴史の象徴

朝鮮時代400年間水軍の本拠地であった麗水

国宝第304号の鎮南館は文禄の役が終わった翌年に建てられた一階建ての木造建物で救国の象徴であり歴史の現場として麗水の象徴です。
鎮南館正面の2階建て樓閣の望海樓は日帝強占期に撤去されたが再復元されました。

鎮南館2020年までに復元工事で観覧不可

忠武公李舜臣が羅左水営の本営として使用

忠武公李舜臣將軍が全羅水営の本営と定めた鎭海樓があったところに1599年忠武公李舜臣の後任の統制官兼全羅左水使イシオンが慶長の役の時、焼けてしまった鎭海樓の跡に75間の大規模な客舎を建て、南側の倭寇を鎮圧して国を平安にするという意味で鎮南館(チンナムカン)と名前をつけた。.
文禄・慶長の役を勝利に導いた水軍の中心基地としての歴史性と1718年(肅宗44年)全羅左水使の李濟冕(イジェミョン)が再建した当時の外観を保っている。建物の規模が正面15間、側面5間、建物の面積240坪で現存する地方官衛の建物としては最大規模である。韓国で柱の間が15間にもなる建物は寺や画廊、宮殿の行廊宗廟の正殿のような建物を除けば陜川、海印寺の經板庫と鎮南館の二カ所だけだ。

ゆっくり鎭南館を見回しながら案内板を読んでみる。68本の柱で作られ、高柱で処理してある。この高柱は直接宗樑を支え、大樑の上に退樑がかけてある。前後面の內陣柱と外陣柱の間には簡単な形の退樑をつなげ、側面の間には2個の衝樑を置いてその頭は内部の大樑の上に抜けて竜頭で仕上げられている。 柱の上に編まれた包作は、外部では出目檐遮がある2出目の多包系技法でつくられ、内部では出目檐遮を省略してサルミだけで重畳して組まれ、翼工系包作技法でつくられている。

外部の出目に使われている檐遮には華やかな飾りをつけ、特に正面の御間柱と隅柱には竜頭飾りを使った。各柱間には1つずつの華やかな花盤を配列し、建物の立面空間を活かしており、内・外部及び各部材には当時の丹青文様も大部分がきれいに残っている。また、建物内部の空間を広くするために建物両側の柱である高柱を後に移す技法を使い、空間の効率性をいかして、家具は簡潔ながらもしっかりした部材を使って建物の雄大さをいっそう引き立てている。

建物の両側面には2つの衝樑(側面樑)をかけて非常に安定した技法を駆使しているなど、18世紀初に建てられた建物だが、当時の歴史的な意義とともに学術的、学術的にも芸術的にも優れた価値がある。

鎭南館内部の全景

遠目で見た鎭南館の全景

国宝第304号に指定

来客用として利用された鎭南館は、1959年に宝物に指定されてから後にその重要さと価値が認められ、2001年国宝第304号に指定された。
鎭南館の庭の中に建てられている石人も有名だ。

石で造った人の姿である。麗水は文禄の役のときの海戦の激戦地として有名なだけでなく全羅左水営であった李舜臣將軍の遺跡がたくさん残っているが、これもやはり彼と縁の深い遺物だ。伝わっている話によると文禄の役のとき李舜臣將軍が亀甲船を造っている真っ最中に倭寇の攻撃が激しくなると、これを防ぐために7つの石人(トルサラム)を作り人が立っているように見せかけて敵の目をごまかして結局戦争を勝利に導くことになったという。

鎭南館庭の中に立てられている石人

鎭南館全景

鎭南館夜景

もともとの7基の中で今はこの一つだけ残っている。頭には頭巾をかぶり手は腕組みをしていてその上に上着の裾が垂れている姿で、視線は悠々と敵を見つめているようにみえる。
たとえ伝説にすぎないとはいっても、文禄の役と関連した貴重な文化財だといえる。

  • last update 2019.04.01
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